2007年7月9日月曜日

「意味」と「強度」について

『人生の教科書「よのなか」』藤原和博・宮台真司(筑摩書房)より

・・・男は以前から、天下国家のため、立身出世のため、世のため人のために生きることになっていました。意味追求的な生き方が推奨されていました。でも右肩上がりの近代過渡期(重化学工業が急展開し、都市化が進んでいく時期)が終わって、近代成熟期(成長の限界が明らかになり、都市の中でサービス産業が重要になる時期)になると、そういう生き方は難しくなってきます。

頑張れば、国も地域も会社も家族も自分も豊かになるという時代は終わりました。これ以上物が豊かになる(ために頑張る)ことよりも、コミュニケーションを今ここで楽しめるような生き方が重要になってきます。
もともと女の子は、天下国家や立身出世から見放されていたこともあって、「今ここ」のコミュニケーションを楽しんで生きることの達人です。ところが男の子は「意味のゲタ」の歯が折れて、右往左往せずにいられません。

「意味」の充実とは別の種類の濃密さを「強度」と言います。これはポスト構造主義という哲学の概念で、フランス語のアンタンシテ、英語でいうとインテンシティ(intensity)の訳語です。「密度」とか「濃密さ」と訳したほうが分かりやすいかもしれません。
もっと簡単に言えば、意味とは<物語>、強度とは<体感>に相当しています。なぜなら、<物語>は過去から未来につながる時間の展開が重要ですが、<体感>は「今ここ」が重要だからです。

物の豊かさにあふれる近代社会は、人々が「意味」を求めて生きることによって出来上がりました。別の言い方をすれば、近代社会は、人々に「意味」を追求させることで、社会が必要とする振る舞いを、生み出してきました。勤勉さには意味がある。成功することには意味がある。国や会社のために生きることには意味がある・・・。若い人たちが「いい学校・いい会社・いい人生」という物語に動機づけられるのも、そういうことなのです。

でも、近代社会をつくりあげるとき(近代過渡期)に必要だったさまざまな「頑張り」は、いったん近代社会ができあがると(近代成熟期)いらなくなるばかりか、場合によっては有害になります。

昔だったら、出世競争から離脱して、自分の生活を楽しもうとする人は、「脱落者」だと言われました。今でも大人の一部はそう言います。でも、統計を見ると、若い人であればあるほど、いちばん大切なのは私生活で、仕事や会社は二の次だと答えるようになっています。むしろ今では逆に、自分の生活を「今ここで」楽しめない人間たち、強度や体感にアクセスできるチャンスをもたない人間たちこそが、「脱落者」に見えるようになりつつあります。

0 件のコメント: