2007年7月14日土曜日

<共同性>から<共生>へ

『人生の教科書「よのなか」』藤原和博・宮台真司(筑摩書房)より

先に述べたように、近代が成熟期にいたると、「意味から強度へ」「物語から体感へ」という流れが生じることは避けられません。それはハレとケ、非日常と日常を反復することでようやく生きのびてきた人類の、本来の生き方でもあります。

元来、性も暴力も、意味や物語に収まりきれない濃密な体感を与えてくれます。
人間が「性的衝動」や「暴力恐怖」を持つように本能的にプログラムされている以上、「意味から強度へ」という流れの中で、性や暴力が濃密さのみなもととして見出されてしまうことは、実は、どうしようもないことなのです。

だとすれば、いったい何ができるのでしょう。答えは、「意味から強度へ」「物語から体感へ」という流れが、「共に生きること」「社会の存続」と両立するような条件を探る作業です。
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成熟社会とはそもそも何が幸いなのか、何が不幸なのかが、人それぞれに異なる社会のことです。
何に意味があり、何に意味がないのかが、人それぞれに異なる社会のことです。何が意味的に正しく、何が正しくないのかが、人それぞれに異なる社会のことです。
そういう社会では、「これさえあればおまえは幸せだ」と押しつけずに、「共に生きる」という枠の中で「自分だけの幸せ」を互いに模索することが、責任ある生き方だと考えられます。

とするならば、たとえ一部の人たちにとって「道徳的な正しさ」から逸脱しているように見えても、「共に生きる」ことを侵害しない強度追求・体感追求は許されてもいいはずです。共に生きることを侵害しない性、共に生きることを侵害しないクスリ、共に生きることを侵害しない暴力は、たとえ奇妙に見えたとしても、許されるべきではないでしょうか。

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『世紀末の作法』宮台真司(リクルート ダ・ヴィンチ編集部発行)より


「異質な他者による否定」を前提としない人間観・社会観は、複雑化しつつある日本社会でさまざまな軋轢を生んでいる。この軋轢が「共同性喪失」のせいだと考える伝統主義者は、伝統文化や歴史による国家大の「共同性回復」を声高に叫ぶ。だが既に述べたように、回復されるべき伝統が恣意的できわめていかがわしい。

私は、そうしたいかがわしい「共同性」の回復は不可能なばかりか、必要でさえもないと考えている。むしろ必要になるのは、異質な他者あるいは小さな共同体同士が「共生」するための透明なルールではないか。

社会学はかねて二種類の秩序を考えてきた。
一つは「共同体」的秩序。そこでは人々が同じ感じ方や振る舞いをするので明示的ルールは必要ない。
・・・ところがもう一つ「社会」的な秩序がある。「社会」という観念は、皆が同じものを同じように体験するという自明性が失われるフランス革命期に生まれた。
放っておくと殺し合いをしかねない、異なる神を奉じ、別の利害を持つ人が、明示的ルール(宗教的寛容など)を共有し「共生」する「社会」。

「共同性」から「共生」へ。

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