2007年7月14日土曜日

他者からの承認について

『倫理としてのナショナリズム』佐伯啓思(NTT出版)

今日、人が求めているのは、決してコスト競争に勝ったグローバルな大量生産商品などではないし、「価格破壊」された商品を買い込むことでもない。

ゆとりをもった、他者と共有できる時間、共同の活動への参加、かけがえのない価値を実現するための共同作業、そして、こうした信頼できる他者との交わりの中で得られる敬意や承認、こうしたものである。

他者から承認を得、是認され、そしてできれば敬意を払われること、およそ「善き生」はこうした条件を離れてはありえない。独我論的で主観主義的自由の中には、「善き生」はありえない。 「善き生」は信頼できる他者との共同の活動の中からしか出てこない

・・・今日、重要なことは、他者からの確かな是認を得ることである。 そして、われわれの社会は、様々なレベルでの「共同のつながり」を持っている。 家族や友人の集まり、自発的な集団、クラブ、地域コミュニティ、企業組織、学校、NPOネットワーク、宗教的集まり、そして国家である。

こうした、多様な次元において、開かれた集団のもつ共有価値があり、諸個人は、この価値にコミットすることによって多様な「共同のつながり」に属している。これらの「共同のつながり」へ参加できる機会を確保し、その場を設定し、そこで一定の役割を果すことで、敬意をもって他者と交わることができる。

消費資本主義がもたらす「働きすぎ」

『働きすぎの時代』森岡孝二(岩波新書)より

ショアは『働きすぎのアメリカ人』において、アメリカにおける長時間労働の実態と原因を明らかにして、1930年代以来長らく忘れられてきた労働時間論議に火をつけた。ショアによれば、アメリカ人が働きすぎになった背景には、「働きすぎと浪費の悪循環」ともいうべき「ワーク・アンド・スペンド・サイクル」(work and spend cycle)がある。

ショアが労働に対応する消費の面からこのサイクルを論ずるために著したのが『浪費するアメリカ人』である。アメリカ社会に出現した「新しい消費主義」を主題にしたこの本では彼女は現代を「消費社会」あるいは「消費資本主義」ととらえ、その原動力を消費の競争的性質に求めている。

彼女が説いているように、資本主義の発展にともない勤労大衆の所得水準がある程度向上し、中流階級を中心に大衆購買力が形成されるようになると、消費を自己目的とする浪費的なライフスタイルが大衆的減少となり、消費資本主義が誕生する。このような意味での消費資本主義はアメリカでは1920年代に、日本では1960年代に現れた。

ショアの説くところでは、人々は消費において、他人と比べ、他人と張り合い、他人に誇示する。
消費のこうした側面については、金持ちの「見せびらかし消費」(衒示的消費)を論じたヴェブレンの『有閑階級の理論』でも取り上げられていた。

・・・こういう消費環境においては、人びとは、質素な生活をもってよしとせず、欲しいものをできるだけ手に入れるためには、仕事はきつくても、労働時間は長くても、残業や掛け持ち仕事をしてでも、できるだけ多くの収入を得ようとする。

ニュー・エコノミー「勝利の代償」

『働きすぎの時代』森岡孝二(岩波新書)より

ニュー・エコノミーは、人々を長時間労働に駆り立てる要因に満ちている。
ライシュによれば、ニュー・エコノミーは、すさまじいスピードの技術革新のもとで不安定性と激しい競争を前提にしている。消費者をつかむ鍵はスピードにある。人々は顧客を維持するためにも、スピードについていくためにも、コストを引き下げるためにも、より長時間、よりハードに、そしてパートや派遣などのより不安定な身分で働くように仕向けられる。
より良いものを、より速く、より安く手に入れるための消費者の競争も、同様の理由で労働の長時間化と雇用の不安定化を引き起こしている。


『成長経済の終焉』佐伯啓思(ダイヤモンド社)より

・・・「すばらしい取引の時代」ではないか、とライシュは述べる。だが、その代償は何か。
まず雇用が不安定となり、貧富の差が拡大した。特に売り込むべき何も持たないものは、世界の低賃金労働と競争するために、以前より賃金は下がり、以前の生活を維持するためにはいっそう働かなくてはならなくなった。
そして、彼らよりはるかによい報酬を得ている大卒の知的専門家もさらに忙しくなった。彼らは絶え間ない技術の革新と市場の開拓に終われ、ひとたびこのゲームから降りるや否や、もはや再び以前の地位や所得を手に入れることはできないからである。
かくしてアメリカ人の平均労働時間は、いまやヨーロッパ人を年間で350時間も上回り、かの「働きすぎ」の日本人をも上回っている。・・・

で、その結果どうなったか。家族が共に過ごす時間がなくなってゆく。子どもたちは大人とは異なったルールで彼らだけの世界を作る。一つの家族なり社会のモラルや価値が失われてゆく。さらに地域コミュニティが崩壊してゆく。アメリカのよき伝統のひとつであった様々な人々が入り交じり、ボランティア活動が可能であった地域のコミュニティが解体してゆく。

------------------------------------------------------

我々が利便性を求めたすぎたあまり、社会が「ゆとり」を失ってしまったと多くの人が感じているのではないでしょうか。ファストなものを求める方向に行き過ぎた社会を少し元に戻そう、という動きが強まっているように感じます。
「消費者」はすなわち「労働者」でもあります。神経症的に便利さやスピードを求めると、結局それは自分自身の首を締めることにつながってしますはず。
本当の豊かさとは何か。便利さとゆとりとのバランス均衡点はどこにあるのか。
その答えを我々は探してゆかねばなりません。

ニューエコノミーの到来

『成長経済の終焉』佐伯啓思(ダイヤモンド社)より

90年代に、先進国経済は、製造業を中心とした大量生産、大量販売から、消費者の欲求やニーズにいち早く反応する大競争の時代に入った。

この大競争においては、ITをはじめとする新たな技術展開と、生産者と消費者を結びつける情報の確保や操作が決定的な要素となる。大量生産、大量販売のもとにおいては、人々はおおよそ画一的なもので満足し、標準的商品を買い込んで「人並み」の生活をすることが目標だった。この規格大量生産経済では、企業は、安定した市場のもとで予測可能な需要に対応すればよい。大きなリスクもなければ、さほどの競争も求められない。

しかし、今日、標準的生活はほとんど実現してしまったのである。生活の基本物質はひとわたり手に入った。だが、この「豊かな社会」において、人々は、もっと良いものを、もっと安いものを、もっとサービスの行き届いたものを求めるようになる。
こうして企業は、絶え間ない技術革新と新たな市場開拓へ向けてとどまることのない競争へ投げ込まれる。「より良く、より安く、より早く」が企業の生死を分ける。

こうして、ポスト大量消費の時代は、いっそうの便利さと安価さを求める消費者の貪欲なまでの欲望に振り回されることとなった。
この欲望へ向けて、情報テクノロジー、コミュニケーション技術、輸送手段における技術的な革新が結合して、経済の質を変えてしまった。それは、かつてのように、すでにわかりきった商品の生産において、生産規模の拡大によって利益を得る規模の経済ではない。
そうではなく、できるだけすばやく製品やサーヴィスを改善し開拓できる販売者、消費者のわずかな嗜好の変化をすばやく掴み取るマーケッター、あるいは、ブランド・イメージを生み出すことで消費者を満足させることのできる生産者、こうした者こそが利益を手にすることができるのである。

要するに、「工業社会」から「ポスト工業社会」への移行だ。
ライシュは、この「ポスト工業社会」を「ニュー・エコノミー」と呼んでいる。

----------------------------------------------------
『高学歴ノーリターン』中野雅至(光文社)より

ライシュは、グローバルエコノミーの時代は、「大量生産から多品種少量生産の時代に移るのであり、企業規模などに関係なく誰もが市場にアクセスできる時代である」と指摘した。

つまり、グローバルエコノミーの時代には企業規模size of businessよりは個人の能力personal abilityが大きくものをいう、というわけだ。そして、このような経済体制を前提として、「変人」unique personと「精神分析家」psycho-analystがグローバルエコノミー時代の勝利者であると述べた。

変人とはアーティスト、発明者、デザイナー、エンジニア、金融のエキスパート、作家など「特定の媒体において新しい可能性を見つける能力を持ち、そしてその可能性を深め、発展させることを喜びとするような人たち」だ。

他方、「精神分析家」とは、営業担当者、タレントエージェント、需要開拓者、流行観察者、プロデューサー、コンサルタントなど「他の人々が何を欲しているか、何を見たいか、何を経験したいかについての市場の可能性を知ることができ、そういった機会をどのように生み出すかを理解している人」のことだ。

・・・ライシュの考え方が新鮮なのは、彼が〝人間の能力〝そのものに注目しているからだ。彼は「どの職業が儲かる」「どの業界が勝ち組」とは言ってない。どの職業にもどの業界にも、「勝ち組」と「負け組」がいることを前提としたうえで、変人のように創造性creative abilityがあり、精神分析家のように市場や消費者のニーズを分析できる人間こそが「勝者」になると述べているのだ。

<共同性>から<共生>へ

『人生の教科書「よのなか」』藤原和博・宮台真司(筑摩書房)より

先に述べたように、近代が成熟期にいたると、「意味から強度へ」「物語から体感へ」という流れが生じることは避けられません。それはハレとケ、非日常と日常を反復することでようやく生きのびてきた人類の、本来の生き方でもあります。

元来、性も暴力も、意味や物語に収まりきれない濃密な体感を与えてくれます。
人間が「性的衝動」や「暴力恐怖」を持つように本能的にプログラムされている以上、「意味から強度へ」という流れの中で、性や暴力が濃密さのみなもととして見出されてしまうことは、実は、どうしようもないことなのです。

だとすれば、いったい何ができるのでしょう。答えは、「意味から強度へ」「物語から体感へ」という流れが、「共に生きること」「社会の存続」と両立するような条件を探る作業です。
-----------------------------------------------------------

成熟社会とはそもそも何が幸いなのか、何が不幸なのかが、人それぞれに異なる社会のことです。
何に意味があり、何に意味がないのかが、人それぞれに異なる社会のことです。何が意味的に正しく、何が正しくないのかが、人それぞれに異なる社会のことです。
そういう社会では、「これさえあればおまえは幸せだ」と押しつけずに、「共に生きる」という枠の中で「自分だけの幸せ」を互いに模索することが、責任ある生き方だと考えられます。

とするならば、たとえ一部の人たちにとって「道徳的な正しさ」から逸脱しているように見えても、「共に生きる」ことを侵害しない強度追求・体感追求は許されてもいいはずです。共に生きることを侵害しない性、共に生きることを侵害しないクスリ、共に生きることを侵害しない暴力は、たとえ奇妙に見えたとしても、許されるべきではないでしょうか。

-----------------------------------------------------------
『世紀末の作法』宮台真司(リクルート ダ・ヴィンチ編集部発行)より


「異質な他者による否定」を前提としない人間観・社会観は、複雑化しつつある日本社会でさまざまな軋轢を生んでいる。この軋轢が「共同性喪失」のせいだと考える伝統主義者は、伝統文化や歴史による国家大の「共同性回復」を声高に叫ぶ。だが既に述べたように、回復されるべき伝統が恣意的できわめていかがわしい。

私は、そうしたいかがわしい「共同性」の回復は不可能なばかりか、必要でさえもないと考えている。むしろ必要になるのは、異質な他者あるいは小さな共同体同士が「共生」するための透明なルールではないか。

社会学はかねて二種類の秩序を考えてきた。
一つは「共同体」的秩序。そこでは人々が同じ感じ方や振る舞いをするので明示的ルールは必要ない。
・・・ところがもう一つ「社会」的な秩序がある。「社会」という観念は、皆が同じものを同じように体験するという自明性が失われるフランス革命期に生まれた。
放っておくと殺し合いをしかねない、異なる神を奉じ、別の利害を持つ人が、明示的ルール(宗教的寛容など)を共有し「共生」する「社会」。

「共同性」から「共生」へ。

2007年7月9日月曜日

「意味」と「強度」について

『人生の教科書「よのなか」』藤原和博・宮台真司(筑摩書房)より

・・・男は以前から、天下国家のため、立身出世のため、世のため人のために生きることになっていました。意味追求的な生き方が推奨されていました。でも右肩上がりの近代過渡期(重化学工業が急展開し、都市化が進んでいく時期)が終わって、近代成熟期(成長の限界が明らかになり、都市の中でサービス産業が重要になる時期)になると、そういう生き方は難しくなってきます。

頑張れば、国も地域も会社も家族も自分も豊かになるという時代は終わりました。これ以上物が豊かになる(ために頑張る)ことよりも、コミュニケーションを今ここで楽しめるような生き方が重要になってきます。
もともと女の子は、天下国家や立身出世から見放されていたこともあって、「今ここ」のコミュニケーションを楽しんで生きることの達人です。ところが男の子は「意味のゲタ」の歯が折れて、右往左往せずにいられません。

「意味」の充実とは別の種類の濃密さを「強度」と言います。これはポスト構造主義という哲学の概念で、フランス語のアンタンシテ、英語でいうとインテンシティ(intensity)の訳語です。「密度」とか「濃密さ」と訳したほうが分かりやすいかもしれません。
もっと簡単に言えば、意味とは<物語>、強度とは<体感>に相当しています。なぜなら、<物語>は過去から未来につながる時間の展開が重要ですが、<体感>は「今ここ」が重要だからです。

物の豊かさにあふれる近代社会は、人々が「意味」を求めて生きることによって出来上がりました。別の言い方をすれば、近代社会は、人々に「意味」を追求させることで、社会が必要とする振る舞いを、生み出してきました。勤勉さには意味がある。成功することには意味がある。国や会社のために生きることには意味がある・・・。若い人たちが「いい学校・いい会社・いい人生」という物語に動機づけられるのも、そういうことなのです。

でも、近代社会をつくりあげるとき(近代過渡期)に必要だったさまざまな「頑張り」は、いったん近代社会ができあがると(近代成熟期)いらなくなるばかりか、場合によっては有害になります。

昔だったら、出世競争から離脱して、自分の生活を楽しもうとする人は、「脱落者」だと言われました。今でも大人の一部はそう言います。でも、統計を見ると、若い人であればあるほど、いちばん大切なのは私生活で、仕事や会社は二の次だと答えるようになっています。むしろ今では逆に、自分の生活を「今ここで」楽しめない人間たち、強度や体感にアクセスできるチャンスをもたない人間たちこそが、「脱落者」に見えるようになりつつあります。

2007年7月8日日曜日

アメリカの就職活動について

個人的に「アメリカの就活ってどんな風にやってるんだろう?」って前から思っていたのですが、その答えをたまたまWEB上で見つけました。こちら↓
http://www.junglecity.com/pro/recruit/26.htm

・・・一方、アメリカでは "即戦力" であることが重視されますから、実務経験がまったくない新卒者を手厚く迎えることはありません。アメリカで新卒者が卒業後すぐに正社員として迎えられる場合もありますが、多くの場合、在学中にインターンシップやパート・タイム・ジョブ、または契約社員という形で実務経験を積むことによって、正社員のポジションを獲得しています。

なるほど。
数年で転職を繰り返すアメリカ人はどうやってまずはじめに仕事の技術を身につけるのだろう?企業側はそのようにめまぐるしく転入を繰り返す労働者に対してどのように仕事のノウハウを教えているのだろう?というのが個人的な疑問だったのですが、アメリカではまず就職前にインターンシップ、パート・タイム・ジョブ、契約社員などの形態で実務経験を積んでいるものなのですね。

日本のように3回生の冬になったから、特にやりたい仕事なんてないけど、まわりが皆やっているから僕も私も就職活動しなくちゃ、なんて感じならないのもいいなぁと思います。
これからはもっと個々人のペースで就職時期を選べるようなシステムに日本もなると良いなぁ。

バタイユの「蕩尽」論

私は以前のブログで成熟社会とは「過剰」な社会である、と書きました。 この「過剰」をいかに〝幸福〟に処理するか、これが成熟社会に課せられた課題です。

「過剰」の処理方法といえば、フランスの思想家バタイユ(1897-1962)の「蕩尽」論に触れないわけにはいきません。

バタイユによれば、人間が労働するのは単に生活に必要な物を作り出すためではなく、そこには過剰に生産した物を破壊し消費しようとする欲求が潜んでいます。そうした破壊と消費の大々的な形態が非日常としての「祝祭」です。

北米北西岸のネイティブ・アメリカンの間には、冬の「祝祭」時に行われるポトラッチと呼ばれる慣習があります。ポトラッチに参加する人々はお互いの力、富、気前の良さを誇示すべく、競って大量の贈り物をし合う。エスカレートしていくと、お互いの目の前で〝贈り物〟を次々と〝無駄〟に破壊してみせる。
我々はポトラッチのような「祝祭」において、過剰となった物を大量破壊すべく、日々の生産と蓄積に勤しんでいる、と見ることもできます。

現代に生きる我々はどのような非日常的な「祝祭」の場で、どのように「過剰なもの」を「蕩尽」できるのでしょうか。それこそがモノに溢れた社会に生きる我々の真の「豊かさ」を規定する重要なポイントとなるはずです。

最も有効なニート対策は若手雇用のミスマッチ解消

最も有効なニート対策は若手雇用のミスマッチ解消 http://www.dai-ichi-life.co.jp/news/pdf/nr05_16.pdf

第一生命研究所によって2005年6月に発表されたレポートです。
このレポートでは、若者がニート化する最大の要因は「雇用環境の悪化」であり、特に15~24歳の若年層で「雇用のミスマッチ問題」が深刻化しているとしています。そこで今後ニートの出現を抑制するためには政府が若年層をターゲットとしたミクロ的雇用対策を打つことが必要である、と同レポートは述べています。

「雇用のミスマッチ」とは何でしょうか?
それはすなわち企業が若者に対して求める「こんな人材が欲しい」という思いと、若者が企業に対して求める「こんな仕事(働き方)ができる就職口が欲しい」という思いにズレが生じている、ということです。このズレ=ミスマッチをいかにして解消していくべきなのか。
その一つの方策はやはり「教育」にあるでしょう。

『ニートって言うな!』(光文社新書)のなかで本田由紀氏は「学校経由の就職」を中軸とする若者雇用市場の見直しが必要であると訴えています。

(以下、引用)
私の考えをひとことで言うならば、「学校経由の就職」というルートだけが特権的な有利さを味わえるような状況を変革するとともに、すべての若者が厳しい労働市場環境を生き延びてゆくための支えとなる、「職業的意義」の高い学校教育を作り上げていくことが不可欠だということです。

それは、労働需要側である企業と、若者を労働市場に向けて送り出す学校教育機関との関係性を変えてゆくことに他なりません。つまり、「教育から仕事への移行」のプロセスを構築しなおす、ということです。それが即座に実現しえないものであっても、長期的に腰をすえて取り組んでゆく必要があるのです。

仏の「週35時間労働」見直しへ 国民の多くは反対

仏の「週35時間労働」見直しへ 国民の多くは反対http://j.peopledaily.com.cn/2005/02/05/jp20050205_47465.html


先進国のなかでは労働時間が最短水準と言われているフランスでも「週35時間労働」を見直す動きが強まっているようです。

フランスの時短の歴史は古く、1936年にはフランスの人民戦線内閣のもとで週40時間と2週間の年次有給休暇を定めた「バカンス法」が成立。その後、1998年6月の「労働時間短縮に関する方向付けとインセンティブ付与のための法」と、2005年1月の「交渉にもとづく労働時間の短縮に関する法」による労働法典の改正で、週35時間労働制が導入されました。

しかし近年ではこの週35時間労働制が仏企業の国際競争力を奪っているとして、与党の民衆運動連合(UMP)が労働時間の延長に道を開く法案を議会に提出し、審議が始まりました。法案の内容は、「週35時間」の枠組みは保つものの、実質的に超過勤務を含めて「週40時間」を可能にするというもの。また年間180時間の時間外労働の上限を延ばし、年220時間まで認めるものとしています。
これに対し、時短を進めてきた野党の社会党や労組は「失業者が増えかねない」と猛反発。すっかり「時短」に慣れたフランス国民も多くが反対しているとのこと。

グローバリゼーションの波が押し寄せるなか、週35時間労働制を保持しながら国際的な経済競争で生き残っていく道はあるのか?
今後のフランス経済体制に要注目です。

成熟社会への移行

『こころ「真」論』高岡健・宮台真司(ウェイツ)より

◆「成熟社会」についての宮台真司の解説
近代社会は、ある時期を境に「近代成熟期」「成熟社会」に変わります。人文系では「モダンからポストモダンへ」と言います 。
移行の境目は「モノの豊かさ」の達成です。具体的には、耐久消費財の新規需要が一巡し、普及率が頭打ちになることを指標にします。
「モノの豊かさ」が達成されると、そこから先、何が幸いなのかが人それぞれになります。その結果、消費動機も、宗教動機も、犯罪動機も不透明になります。この不透明さ、すなわち他人の心が見通せないがゆえに、「心の時代」と呼ばれるようになります。
--------------------------------------------------------------

戦後日本は西側の資本主義経済体制に組み込まれ、順調に経済成長を続けます。経済成長の時代においては経済的に豊かになることがイコール幸せになることである、という大まかな幸福のイメージを国民が共通に描くことができました。
1960年前後には「テレビ、洗濯機、冷蔵庫」が「三種の神器」であり、1970年前後には「自動車(マイカー)、カラーテレビ、クーラー」の「3C」が国民にとっての共通の「欲望」となります。
しかし、2000年に入った現代では爆発的なヒット商品=世代を越えて誰もが欲しがるモノ、が生まれにくくなりました。たとえヒット商品が生まれても、それはごく限られた範囲の人々の間でのヒット商品でしかない。
それはすなわち人々の欲望のかたちが多様化しているから。
人々の欲望のかたちが多様化する時代、それがまさに「成熟社会の時代」なのです。

労働における「疎外」とは何か

マルクスの生み出した「疎外」という概念は、今日の労働市場を考えるうえで未だに有効なツールである。現代の労働者から「希望」を奪っているもの、それがまさに「疎外」だからである。
「モノの豊かさ」が達成された成熟社会において、「働くこと」は単に生活費を稼ぐための手段であるだけでなく、我々のアイディンティティや「生きがい」を形成する重要なツールである。
しかし「労働」がそのようなツールとしての役割を十分に果さず、ただの無意味な苦役であると感じられてしまうとき、そこに「未来への希望」が見いだされないとき、人々は労働から「疎外」される。
これは現在多くのフリーターや派遣労働者が陥っている苦しみに満ちた状況である。
このような状況をいかに乗り越え、すべてのタイプの労働者にとって幸福な労働環境を作り出せるか、これが現代の日本にとって課せられた課題なのである。
以下に仲正昌樹による「疎外」についての解説を引用しておく。


仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想』(NHKブックス)より
「疎外」とは、若きマルクスがパリ滞在中に執筆した『経済学・哲学草稿』の第一草稿に属する「疎外された労働」に出てくる概念である。
マルクスにとって、人間の類型本質は「労働」にあるが、アダム・スミス以来の国民経済学が前提にしていた資本主義的生産体制においては、労働者が自らの類型本質を投入して生み出したはずの「労働生産物=商品」が、労働者に対して「疎遠frend」なもの(=他人のもの)として現われてくる。具体的には、労働の結果が資本家と言う他者によって搾取されるということだ。
それによって、労働者は自己の類型本質である「労働」から「疎外」されることになるし、労働者を使用して「商品」を手に入れている資本家っも、自ら「労働」していないという意味で、やはり類型本質から疎外されている、と言える。
結局、資本主義的生産体制が続く限り、すべての人が類型本質から疎外されることになる。